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第1話 姉が消えた朝④

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-06-20 13:57:34

 理解できることと、従えることは違う。

「……だからといって」

「だからといって、何だというの」

 父の声が、少しだけ低くなった。

「お前は何も失わん。むしろ、辺境伯夫人という立場を得るのだ。北辺とはいえ辺境伯家は大きい。伯爵家の次女としては十分すぎる縁だろう」

 その言葉に、思わず顔を上げた。

 何も失わない?

 立場を得る?

 喉の奥が熱くなる。けれど怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからなかった。

「お父様は、私が何も失わないとお思いなのですか」

 問いかけると、父の眉がわずかに動いた。意外そうですらあった。まるで、反論そのものが予想外だったかのように。

「私の名前ではない名で嫁ぐのに。最初から嘘で始まる結婚なのに。辺境伯様がそれをお知りになった時、私がどうなるかもわからないのに」

「だから、知られぬようにするのです」

 母が即座に言う。

「そして、いずれ機を見て説明すればよいでしょう。情が移ったあとなら、男は案外どうにでもなるものよ」

 その口調のあまりの軽さに、胃の奥が冷えた。

 母は、本気でそう考えている。男はどうにでもなる。夫婦になってしまえば、女は受け入れられる。そんなふうに。

「私は……」

 次の言葉が出てこなかった。

 怒りも、恐怖も、屈辱もあるのに、うまくまとまらない。胸の中にはただ、濁った水のようなものが溜まっていく。

 母は一歩近づき、セレフィアの顎を指先で持ち上げた。その手は冷たかった。宝石のついた指輪の角が、肌に硬く触れる。

「よくお聞きなさい」

 至近距離で囁かれた声は、静かで、ぞっとするほど整っていた。

「お前はそのために育てたのです」

 呼吸が止まった。

 その言葉は先ほどよりも近く、もっとはっきりと、逃げ場なく耳へ落ちてきた。

「オルフィーヌが光るために、影を整える娘が必要でした。あの子の足りないところを補う手が、頭が、気づかいが。お前はそれをちゃんと果たしてきたでしょう」

 母の指先が、セレフィアの顎を離れて、頬を撫でる。慈しみのふりをした確認の手つきだった。

「今さら何を怯えるの。いつもと同じことよ。少し役目が大きくなるだけ」

 違う、と叫びたかった。

 いつもと同じではない。礼状でも詩でもない。婚礼だ。人生だ。知らない土地へ、知らない男のもとへ、姉の名を被って差し出されるのだ。

 けれどその叫びは、喉の奥で凍った。

 母の瞳に、娘を見ている色がなかったからだ。そこにあったのは、ようやく使い道の定まった駒を見る目だった。

「……お断りします」

 やっとの思いで絞り出した声は、思っていたより小さかった。それでも、はっきりとした拒絶だった。

 母の手が止まる。

「もう一度、言ってごらんなさい」

「嫌です」

 今度は目を逸らさなかった。雨青の瞳をまっすぐ向ける。膝が震えていた。心臓は耳元で鳴っているみたいにうるさい。それでも、逸らしたくなかった。

「私は行きません。できません」

 沈黙が落ちる。

 次の瞬間、乾いた音が大広間に響いた。

 頬に熱が走る。視界が揺れた。何が起こったのか理解するより先に、体が半歩よろめく。頬骨のあたりがじんじんと焼けるように痛い。遅れて、母に打たれたのだとわかった。

 部屋の空気が凍りつく。

 ミレナならこの場で悲鳴を呑んだだろう。だがここにいるのは家令と侍女と側近だけで、誰も声を上げなかった。見てはいけないものを見る顔で、ただ目を伏せる。

 セレフィアは頬を押さえなかった。押さえてしまえば、本当にみじめになる気がしたからだ。ただ、熱の上で自分の脈が細かく打っているのがわかった。

「思い上がらないことね」

 母は静かに言った。叩いた本人のほうが、むしろ落ち着いていた。

「お前に拒む権利があると思っているの」

「……お母様」

「この家で食べ、着飾り、教育を受けてきたのでしょう。そのすべてが何のためだったか、今さら忘れたとは言わせません」

 父は止めなかった。まるで当然の処置を見るように、無言のまま立っている。

 その事実が、打たれた痛みよりも深く胸を抉った。

 セレフィアは、ゆっくりと息を吸った。吸った空気が熱く、うまく肺まで届かない。百合と蝋燭と薪の匂いが混ざり合って、むせそうになる。

「……もし、私が行かなければ」

 声が少し掠れた。

 父が答える。

「この家から出ていけ」

 即答だった。

「お前に渡す持参金も、支度金もない。修道院にでも入るか、遠縁に預けるかは好きにしろ。だが、家の名は使わせん」

 冷たい宣告だった。

 それは脅しであり、同時に事実でもあった。伯爵家の次女であるセレフィアには、独立して生きていけるだけの財産などない。自由になるための手段は、これまで一度も与えられてこなかった。母の言うとおり、彼女は“そのため”に育てられてきたのだ。補佐役として、影として、代わりとして。

 逃げる場所がない。

 その現実が、ようやく骨まで染みてくる。

 窓の外では、庭師が遅れて持ち場へ出たのか、遠くで砂利を踏む音がした。外の世界はいつもどおり朝を進めているのに、この部屋だけが別の時間に閉じ込められているみたいだった。

「セレフィア様……」

 かすかな声がした。家令ではない。母付きの年嵩の侍女が、ほんの一瞬だけ顔を上げたのだ。けれど母が視線を向けると、彼女はすぐに唇を閉ざして頭を下げた。

 誰も助けてくれない。

 その当たり前の事実に、今さら傷つく自分が滑稽だった。

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